大乗仏教徒小乗仏教というのがありまして あんま詳しくないのでザックリと書きますが
小さなお船とみんなで乗れる大きなお船 みたいな
小さなおふねはエキスパート養成大きなおふねはみんなでねという感じで
日本って大乗なのです やはり 小乗的なものそんな拡がらない国民性なの
聖徳太子の17条の~ってあったじゃん?今その第九条を変えるどうのでもめてるあれね
(本気にすんなよ!!)
あれの第一条が和をもって尊しとなすでしょ?いろんな解釈ありますが なかよくね~とか
何事も話し合いで決めなね~ 独裁的な決め方はあかんよ!!と
北朝鮮のみんなのお兄さんや 猪木と対戦しそうになった アミン大統領なんかを大昔に
DISってるのですが
これだってすごい話ですよね~ 民主主義のなかった当時こんなことを憲法の前文に持ってくるって
正直気がくるってるでしょ!!と 諸外国だったら言われます!!がそういうお国なのです
そういうお国には小乗的なもの 受け入れられないですよね!!
でこれは私の勝手な解釈なので 仏教的には全くペケ!!(友近的表現 なんとなくペケっていいそうでしょ?)
実は美魔女ですよね~ ですが何がおもしろいのかは私は分からん
大乗って魔法があったから普及した 普及のために魔法を使ったのです
魔法って奇跡とかその手の魔法ではなく
さてそのあたりを詳しくお話しすると 実は格闘技がすごく仏教的なのです
極真空手あったじゃないですか!!
これってめっちゃ大乗的なわけ
逆にボクシング これって小乗なわけ
まずボクシング 小乗から
いまではダイエットのためのボクササイズとかあって すそ野は少し広がりましたが
基本はプロ資格をとって プロとしてからの競技じゃないですか
しかもプロになって世界チャンプになるのはほんの一握り以下の一握り
プロになっても食べれないし みんなで強くなりましょうという世界じゃないでしょ?
何百人に一人世界チャンピオンが輩出されればよいという世界じゃないですか?
これって悟りのためには 出家得度して みんなで悟りましょうではなくの小乗ですよね?
その中で悟れるのはごくごく一部ですという
逆に極真空手 ちなみにK-1や総合格闘技という他流はとの測定の場に出る前の
大山館長存命時の鎖国時代 地上最強の空手がまかり通ってた頃ね
ちみぃ~(君ね)私は何を言われても怒らんが
禿げといわれたら怒るよ!!(実話 総裁のお茶目な一面ね)
100万人の空手 というように世界中にめった人数いたじゃないですか?
大山道場時代は弟子なんか何人もいらない 強い弟子が一人いればいいとの信念の
頃とは 経営方針変えたじゃないですか?数こそすべてと
マス大山経営者 宗教の教祖(マス大山教)として圧倒的なカリスマ性と無自覚(?)
の強力な組織つくりがあったのです かのオウム真理教も組織つくりに極真空手を
学んだくらいに
そこにはマス大山の魔法があったのです 空海なんかにも通じる魔法が
気になるでしょ?続きます
コメント
友近、いい写真のチョイスですね。
この人、ダイエットのCMでヤセた時はすごく美人で惚れてまいましたが、その後元に戻ってしまって残念です(TT)
現実って残酷ですね。
デパートの婦人下着売り場のマネキンの体型と同じように…。
大乗・小乗とかではなく
本当のお釈迦様の教えの原始仏教をおすすめします
みなさん 自分が良いと思うもの信仰すればいいのです
なので原始仏教もありですし
キリスト教も何でもありです
私は最近 石田ゆり子教に改宗しました
綺麗な方ですね~ 清楚そうで エガのように黒タイツ一枚で
走り回ったり どーん!!とかやんないんだろうな~
マス大山=空海面白いです!内弟子なり太気拳との交流なり妄想してしまいます 笑
エガ繋がりでアパレルブランドとエガのコラボTシャツ男子にも女子にも受け良かったです!あちらからエガって気付かれるという 笑
信仰じゃなくて確信なのです・・
これはほんとうだって
やっぱ理解されないですよね
ジミヘンさんのいうとうり自由です
「信仰」は、人の言葉を仰ぐ
ということ、
「確信」は、人の言葉を確かめる
ということ。
仏教学者である定方晟氏は後者を、すなわち「悟り」と言っています。
また「悟り」とは、「天にも上る」気持ちの方を指すのではなく、「腑に落ちる」感覚。こちらの方であると。
前者をキリスト教、後者を仏教と比定した上で以上のように語っています。
正直、私にはとても難しいことです。
マス大山=空海 澤井さん=最澄(ちょっと違う)
マス大山の秘蔵っ子ろうやまさん 円珍で 結局独立してみたいな ははは
本来は廣重、山田の理論はチャンピオン製造工場=最澄
黒沢=日蓮ですかね~ かなり無理がありますが
エガT APEとかNIGOとかの倒産&大借金な裏原ブランドとコラボ!!みたいなね
私はランボー桜田T欲しいです!!アイアンメイデンT以上のバッドテイストで
合コンモテまくり間違いなし
悟り=天にも昇るではなく腑に落ちる
めっちゃ感覚的にそんな感じなのでしょう
私が日本人で仏教徒だからですが
キリスト教の天にものぼる それもなんとなく
言葉で説明はできないのですが
天上の世界 天上の音楽 天上に上ってといいますか
仏教は この世界において仏の世界を観想というか
意識が天上の世界にとんで その素晴らしい世界を体感するのと(たぶんアマデウスさんなんか)
まとまらんです ははは
翠榎
難しいですよね・・;
私も到底悟りについてなんてわかりませんが・・
勉強して瞑想して、これはすごいって感じてます
小乗とは、馬鹿にされているようで、とても悲しくて色々書いてしまいました・・
さきさん
返信が遅くなり申し訳ありません。
母が急性心筋梗塞で倒れて入院し、とても慌ただしくバタバタとしておりました。
悟りですけど、私もかつては、なにがあっても動じない境地を求めておりましたし、そうなるためにユング医師やワイス博士の本、はてはシルバーバーチやアランカルデックの本を読みふけったりとしておりました(仏教の本もほんのちょっとだけ)。
かつて求めていた動機は、これまでの人生で心に背負った重荷からの解放、そして死の恐怖から逃れたい、等が主な動機でしたが、最近は求めなくなりました。
ある意味、真理や悟りといった、それらのものの追求に疲れたと申しますか。
「もっとより高く!もっとより深く」という、あくなき追求なんてしなくても良いのではないか、と自然と考えはじめられるようになったことがあります。
まさに、ジミヘンさんの仰られますように、
「(高みの境地を求めるのでなく)今の自分のままで」幸せになる、そう「工夫」することの方にベクトルが振れた、そんなところがあります。
まあそこまでいろいろもがいて来たんですけど。
私は家の宗旨が神道で、数年前からその神道への崇敬をそれなりに本格的に深めてきたんですけど、神道では「惟神(かんながら)、言挙げせず」と言って、あまり(というか全然)悟りとかについて言わないんですよね。
ただ、その時を与えられた環境の中で一生懸命生きた先人たちの足跡(古事記、日本書記など)があるだけで。それらは人格的に決して「完璧」ではないし、嫉妬、追い落とし、復讐などもある世界で、ある意味実に生々しいものです。
上手く言えませんが、
かつては「完全自力救済」の境地に至らねばいけない!と気負っていたんですけど、今は、頼ってもいいんでないかな、(甘えも、それが)許される環境にあるんなら甘えても良いんでないかな、と思えている自分がいます。
小乗全く馬鹿にしてないです 逆にめっちゃ理論的ですごいと思ってます
ただなかなか日本では普及しないだろうなと思ってるだけです
学ぶところめっちゃありますし
なぜに馬鹿にと思われたのかが 謎です 私的には
個人的に小乗という呼び方が馬鹿にされてるように感じてしまいました
誤解だったようで、申し訳ありません
記事の内容は私の頭では全く理解できないもので、すみませんでした
小乗という言葉 確かに元は大乗に対しての差別的な意味から
きてるという説もあります が あんま気にしなくてもと思います
歴史的に差別的に使ってた言葉を それは差別だからと今って無理くり変える場合あるじゃないですか?
でもそれって 歴史を変えちゃうので私はあんまどうかと思います
そう呼ばれてたのは現実としてあったわけで その時代背景や風土があるわけですから
それは良い悪いではなくそういう事実だったというね
ただもしそういう現代の被差別な場所や人を現代のわれわれが差別的に呼ぶのは
良くないけど
真理や悟りですが 翠榎さん仰るように まじめな話すると
それを追い求めてる間は現れないと思うのです 追い求めて追い求めて
どっかでそれをあきらめると ふっと姿を現すというか
多分その先の境地といいますか あきらめた先からなんじゃないかと
あきらめ=現状にまんぞくであったり あるがままに受け入れるだったり
人それぞれですが 行法やらも追いかけてその先にまずたどり着くためのもので
そこでおしまいではない気が