恨みは世代を超えますというお話の続き ちょっと無理くり感もありますが
気にせずに ははは
翠榎さんこめで詳しく書いてますが
源義家さん この方欧州征討の際に征夷大将軍を望んだのです
結局朝廷に任じられず これは子孫の頼朝の悲願にも ̄過去記事読んでね
さてなぜ義家さん強く望んだか 色々理由ありますが これになるとどういうものかといいますと
朝廷の前線基地ですよという扱いになるわけ 戦地での徴兵や徴税、裁判権まで与えられ
奥州で税を取ったり兵隊集めれるわけ
それがないとすべて義家さんの持ち出しになっちゃうわけ そのあたりコメで勝手に税をとった等ありますが そうせざるをなのです
そしてもう一つ 戦いの前に国司に任じられたのです
奥州って当時から大量の砂金や上質な馬の産地で
それらからの莫大な収益を考えウハウハ しかも恩賞もそれらで賄えるし
そりゃあ頑張って奥州征討しちゃいますよ~
だったのですが
征討後国司の任を解かれちゃうの そうすると戦費持ち出し
恩賞も結局自腹で 大赤字
そのどさくさで 奥州は藤原さんがかすめ取って(実質ね 婚姻やら調略もして)
もうね
私の感覚だと義家激怒!!あの土地は苦労した俺のもののはずなのに
火事場泥棒しやがって 藤原絶対許さん!!
めっちゃ恨んだのです それが転生して頼朝さんに~で
藤原氏も3代目の秀衡までは 絶対に源氏は自分たちを恨んでいる
もし力をつけたら攻めてくる と思ってたと思うのです
特に秀衡は 源氏再興~を目のあたりにして
これは長年の恨みで 絶対攻めてくるぞと
そのために 軍神義経を奥州に招いたと思います いざとなったら
義経を立てて戦えば 勝てると
ただ4代目の倅の感覚では 長年の恨みから奥州を亡ぼすとは思ってなかったですな
義経を渡せば約束通り攻めないでしょって
そこは甘すぎ
奥州の脅威以上に 長年の恨み(ある意味源氏の悲願)のため そっちのほうが大きかったかも?
と思ったりです はい 恨みってね子孫にまで伝えられ それがいつしか家の悲願になっちゃうのです はい
霊的にも転生しますし 先祖霊が子孫を動かしたりします
よくある自分の3代(7代も)ごの子孫がこの家を再興する~とかって
先祖の悲願のお力も多い気が
さて次回は源為朝さん この方日本史上最強では?
ひとというより マシーン!!義経さんや謙信さんが鬼神の化身なら
このかたは鬼神そのもの!!将門さんもそんな感じしますが おおきさが
コメント
「征夷大将軍」
といえば坂上田村麻呂公ですが、源頼義・義家父子がその役職に補任されなかったのにはむしろ、朝廷の意志すら感じますね。
奥州藤原四代の祖である亘(わたりの)権大夫・藤原経清公には、実はその父系は坂上氏説という結構根強い説がありまして(旧ブログにもありましたね)。
まだ主流学説にはいたっていませんが、その概略を述べますと、
坂上田村麻呂の次男にして坂上氏の総領(「氏の長者」といいます)を継いだのが坂上広野という人物です。
この広野の子孫に陸奥権大掾・坂上有行という人物がいるのですが、その有行が藤原秀郷の孫である藤原千清の娘と結婚をしました。
そして、2人の間には五人の男子が生まれるのですが、その五男を坂上五郎大夫頼遠(さかのうえのごろうだいふよりとお)と言います。
頼遠たち兄弟の外祖父である藤原千清には男子が生まれなかったらしく、この五郎大夫頼遠が外祖父である藤原千清の養子に入って藤原氏を継ぎ、坂上頼遠から藤原頼遠となった、
というものです。
そしてその五郎大夫頼遠の嫡男が、再三申し上げてきています平泉藤原氏の祖に当たる亘権大夫・藤原経清になります。
ですので、この説が正しければ、
むしろ、有職故実を重んじる朝廷からすれば、奥羽における征夷大将軍職やそれに匹敵する立場・役職は坂上氏の血を引き継ぐ平泉藤原氏にこそ、ふさわしい、と考えられた節が伺えるのです。
だからこそ、前九年の乱で安倍氏が滅ぼされたあとも、安倍氏の婿であった藤原経清の嫡男・清衡公は、乱後、奥羽の「覇者」となった清原氏からも、そして源義家からも丁重に扱われたのだ、と考えるとすごく筋が通るのです。
征夷大将軍ではなく国司だったので泥沼の戦いになったんですね。国司なので他の奥州勢は参戦しなかったと、接待はするけどみたいな 笑 なので関東から兵を呼んだと。前からなんで長い間戦してんだろうと思ってたんで納得です。南の奥州勢は動かなかったと。木幡山に逃げた源氏、追う安倍氏を領主は我関せずみたいな 笑 やはり秋田城、多賀城から北は朝廷にとって鬼門なんですね〜。なので平泉は都に睨みきかせるには絶好の場所だったのかもと思えて来ました 笑
何となくですけど弁慶の怪力エピソード為朝公へのオマージュかもと。そして気になるのは常陸坊海尊です。
征夷大将軍は完全に朝廷の意志で任ぜられなかったかと
田村麻呂さんは朝廷の中の人間であっていまでいう正規兵
義家さんは朝廷の外の いわゆる私兵だったので
やはり力を与えたくなかったのだと思います 後の後白河上皇が
頼朝が圧力をかけ征夷大将軍の任官をと執拗に迫っても
存命中は任官しなかったのも同じ理由かと
結局後白河さん死後ですから この後白河さんもかなり興味深い人間です
時代劇でいえば越後屋~そちもわるよの~ というけど
実はめっちゃ悪くてかつ老獪な ラスボスみたいな さすがの頼朝 大江さんコンビも
中々てこずったと思います
まさに大天狗!!
では、源義家が何故あれほどまでの執念深さを持って出羽清原氏を滅亡に追い込もうとしたかというと、前エントリーのコメ欄で書きました前九年の役での経緯があるからなんですよ。
中央軍事貴族の第一人者として陸奥に赴いたものの、河内源氏統領の源頼義、義家父子は、精強な安倍軍相手に全く歯が立ちませんでした。黄海(きのみ)の戦いで源氏軍は安倍軍に壊滅的な大敗を喫し、頼義父子側の主だった将兵はみな討ち死に。頼義父子もほうほうの体で戦場を抜け出し、雪の中をさまよいながら逃亡しました。
そして、安倍軍側の捜索隊長である藤原経清が、逃げ隠れていた頼義父子を見逃していなければ、間違いなく頼義父子は処刑されていました。
このことを頼義、義家父子は大変屈辱に感じていた。
しかも源頼義は、自軍の兵は安倍氏によって壊滅させられていますので、再び安倍軍相手に戦いを挑むには、新たに奥羽の豪族に頼んで自分の味方に付いてもらうしか無かったのです。
そこで頼義は当然、安倍氏に匹敵する実力を有する出羽国の仙北三郡の郡主であった清原氏に援助を請うんです。
前エントリーのコメ欄にも書きましたけど、源頼義には鎮守府将軍&陸奥守としての期限が迫っており、時間が残されておりません。
期限切れとなって、役職を解かれ、都に帰れば、地方豪族相手の戦いに完敗した河内源氏は権威失墜し、もう中央で軍事貴族として生きる道は残されていなかったと推察されます。
そこで出羽の清原氏に援助を請うわけですが、この時の源頼義の清原氏への援助の請い方は、それは屈辱的なものであったといいます。
清原氏を招いての宴会の席では、清原氏を自分たちよりも上座に挙げて自ら接待をし、様々な贈り物をした上で、安倍氏討滅に成功した暁には格別な恩賞が朝廷から下されるよう確約までしました。
それでも清原氏は頼義の誘いになかなか乗ってきませんでした。
そして極めつけは、源頼義は清原氏に「臣下の礼」まで取らされたのです。
「臣下の礼」とはつまりは家来になる、ということです。
中央軍事貴族の第一人者である清和源氏(河内源氏)の統領が、奥羽のいち地方豪族の家来になった、ということです。
プライドの高い頼義にしてみればこれほど屈辱的なことは無かったことと推察されます。
ここまで確約を取り付けて、出羽仙北三郡主の清原氏はやっと重い腰を上げます。
ようやく出羽清原氏の援軍を得て、源頼は再び、安倍氏相手に決戦を挑むのです。
出羽・清原氏の援軍を得て以降の、源頼義の安倍氏への再戦は、その采配はすべて出羽清原氏が握りました。
事実、各方面隊の大将の座に就いたのはすべて清原一族の将たちです。
陸奥守として、最終的になんとか戦いには勝ったものの、乱後の「戦利品」である安倍氏旧領の地である広大な陸奥国奥六郡の地はすべて清原氏の手に渡りましたし、源頼義の役職であった鎮守府将軍のポストにも乱後は出羽清原氏が就任します。
つまり源頼義・義家父子にしてみれば、この前九年の役というものは、自軍は壊滅させられるわ、陸奥国における利権は一切手に入れることは出来ないわで、散々の目に合った戦いだったのでした。
そして極めつけとして最も屈辱的だったのが、出羽清原氏の家来にさせられた(「名簿を捧げる」と言います)ことであったのでした。
これが源頼義には最も耐え難いことであったと思います。
頼義は、味方についてもらい、そのおかげで安倍氏を討滅させることが出来たのにも関わらず、この出羽清原氏に対して怨念の情を抱いた、というのが私の推測です。
乱後の頼義は、さきコメで前述しましたようにあまりパッとしない人生を送りますし、武人として二度と陸奥での失態を取り戻す機会も与えられず晩年を過ごしました。
おそらく、頼義はことあるごとに息子の義家に、「清原氏を討て。そして家来にさせられた証拠である名簿を清原氏の居館ごと焼き払って消失させてしまえ」と命じていたことと推察されます。
それが、
戦を起こすには朝廷からの認可が必要なのですが、その認可を取ることもなく、
なんら朝廷に対し謀反を起こしているわけでもない出羽清原氏に対して、源義家が執拗に難癖を付けて戦いを起こしたおそらく理由です。
めっちゃ興味深い内容です!!
こちらで伝えられてる内容とはやはり違いますね~
さすが現地の生の情報!!清原氏の家来にまでですか!!
そりゃあ絶対に許せないというほどの屈辱と強い怒りです!!
頼義親子にしてみたら しかもそのような敗戦では もののふとして 致命的ですよね~
たむらまろさんの頃やこの時の奥州の屈強さを知ると
都では やはり奥州は人間ではない 鬼の国だ!!と思っても不思議はないですね~
なぜそこまで強かったんですかね?
ホームというアドバンテージを差し引いても 兵器にそこまで差があるとも思えない気もしますし
戊辰戦争の頃のように
現地の生の情報
というか、現在の学界の最新研究に準拠して述べています。
私自身はいちども奥羽に住んだことはありません。
義家の「軍神」としての神威とかのお話は、ジミヘンさんの仰られています頼朝の時代に、頼朝の武士の統領たるに相応しい由来譚づくりのために作り上げられたものなんです(これも、野口実氏や元木泰雄氏やなど現在の学界の第一人者による最新研究です)。
清和源氏はその初期の頃はむしろいくさ下手であり決して精強ではありませんでした。
清和源氏の始祖である源経基は、平将門との乱の時、将門が単に話し合いをつけに来ただけなのを、「攻められる」と勘違いして都に逃げ帰ってしまいました。それで、坂東武者から
「いまだ兵(つわもの)の道に練れず」
と馬鹿にされてしまうんです。
この初代・経基を見ても、二代目・満仲を見ても、初期の頃の清和源氏は、その事績を見ておりますと、戦の正規軍の大将、というよりはむしろ、影で暗躍する部隊の隊長、現代で言うと、CIAやKGBやモサドの長官、と言った方がその実態に相応しいと思います。
想像ですけど雪の扱いなど防寒の知恵などの差、昔は今より凄い雪降ったと思うので日常の雪掻きがフィジカルトレーニングになったのかもと。雪の質も東北、新潟、北陸で違いますし。なので清原氏が参戦するとすぐに制圧するのも納得で。
八幡太郎の神格化に絡むと思うんですけど隣町の熊野神社はマロ様創建の八幡神社だったのが頼朝さんの時代に熊野神社になったと。
最新の研究からですか~ 私もちょっと勉強頑張ります
知るってめっちゃ楽しいですもんね~
今私の興味は 学生時代全く興味のなかった南北朝時代にもです
呪術的になんて面白いんだ!!
オカルトだよ!!って
清和源氏の初期が戦下手!!目から鱗ですが よくよく考えれば清和天皇の~ですから
当たり前ですね 見落としです 鎌倉武士のイメージからの視点なので
軍人というイメージしかですが たしかに貴族ですもんね~ 元は
わたし基経さんの時代から軍事の家 いわゆる大将 のイメージだったので
目から鱗です!!
>たむらまろさんの頃やこの時の奥州の屈強さを知ると都では やはり奥州は人間ではない 鬼の国だ!!と思っても不思議はないですね〜
>なぜそこまで強かったんですかね?
奥羽北半部以北の豪族を辿って行きますと、元は越(こし/北陸地方)の北方系渡来人・韃靼人に行き当たります。
彼らは製鉄技術を有していました。
そして騎馬技術にも長けていました。
奥州・奥六郡主の安倍氏や出羽・仙北三郡主の清原氏は、氏姓制度の時代やそれに続く律令制度初期の時代に、軍事氏族や軍事官僚として奥羽に赴き、これらの豪族に招婿されて成立した氏族とみなされます。
日本刀の原形となる蕨手刀や舞草刀、毛抜型太刀などはいずれも奥州で生まれた武器ですからね。
上記の刀剣群は、反りが入った形になっており、それまでの直刀型の刀と比較して、馬上での戦いに優れており、大和朝廷側の軍事官僚(小野氏や坂上氏など)や、軍事貴族(清和源氏、貞盛・繁盛流桓武平氏、秀郷流藤原氏など)がこぞって陸奥、出羽両国の国司や押領使、そして鎮守府将軍職や秋田城介職などへの任官を望んで奥羽へ行きたがったのも、この、最新兵器を(その制作法も含めて)手に入れることが最大の目的であったと言われております。
あと、源平合戦時代の馬は小型で…
というお話ですが、これは川合康先生の論文に基づかれたお話だと思われます。
曰わく「義経など鎌倉武士たちはポニーのような小型馬に乗っていた」と。
たしかに現代に残っている日本在来馬は、サラブレッドに比べて小柄ですが、川合先生、先に述べました「義家の実像」や「(その義家の)後世になってからのあと付け神話化」には大変論拠のある説でありほぼ定説化しているのですが、この「ポニー」の一件だけはその経歴にミソを付けてしまわれました。
日本在来馬が小型になったのは、戦の無くなった江戸時代に小型改良化されたからなんです。
北海道のばんえい競馬に使われる馬は、義家たちなどの源平武者たちが乗っていたのと同じ日本在来馬ですが、大変大柄であり、また、サラブレッドなんか比較にならないくらい「ぶっとい」です。
日本在来馬はモンゴル馬と全く同じ種類であり(つまりジンギス汗などが乗った馬と同じ種類です)、おそらく古代に韃靼方面から持ち込まれた馬ですが、小型化、大型化それぞれのベクトルを辿るとその大きさにこんなに開きが出てしまう、
というよい見本になっていると思います。
中尊寺の讃衡蔵で蕨手刀見ました。奥州の馬も後に明治天皇の愛馬の金華山号に繋がると思うと面白いですね。
反りの入った刀奥州からなんですね!!めっちゃ目から鱗
私もポニーのような馬説にやられてました!!
びっくりです
製鉄技術を持った部族=鬼説をわたし持っていたりで ははは
吉備なんかも
日本在来馬がでかくてぶっとくて説
当時の日本人の体格が現代人より小柄ということ(骨太ですが)
を考えると 想像以上に馬と人間の比率 うまがでかかったんですね~!!
吉備はその通りです。
鳴釜は百済ですし、
「桃太郎(吉備津比古命)」が退治したのは新羅です。新羅の方は丹波(当時は丹後を含みます)が本家でそこからの分派になりますが。
「鬼は製鉄技術を持つ渡来民」
というのもある意味、その通りなんです。
製鉄技術を持たなかったが故に、いっとき彼らに屈従を強いられていた日本土着の勢力の側から、新羅や韃靼人を呼んだ呼称が「鬼」なんです。