将門公を書き出してから部屋のギターが一本だけ何度も鳴るんです
しかも5弦のA音だけが
こんな感じでスタンドにおいてて 手前のギターなのですが
5弦はピックを挟んでるので ポーンと鳴るはずはないのです 弦をはじいても
ボソッと鳴るくらいで
でですね フッと浮かんだのが 鳴弦なんです 陰陽って弓のつるをはじいて音を出して
魔を祓うと言うのがあるのです 鳴弦といって
表ブログいかきましたが 我が家も 明治に(江戸末期?)土御門家が全国の陰陽師を
統制して免状を発行と言う流れがあったときに
鳴弦はだめ、万歳は駄目 等の規制があったので 結局土御門はいかとはならずに
民間陰陽師と言うほうこうになったのですが
ああ、鳴弦ではらってくれたなって 浮かんだのはですね 我が家の弁財天さま
江ノ島の裸の妙音弁財天様いらっしゃるじゃないですか?びわを持ってる
あれって美しい音楽を~というより 魔よけ、祓いなんです
という感じで さて将門公を書きながら 日本3大怨霊神を書かねばと思って
まずは 天神様 菅原道真公から書きます ちなみに崇徳上皇は書こうと思ったら
背中越しに 血だらけの武者の生首が現れたので 今日はパス
道真公が怨霊と言われてますが 私の中ではこの方怨霊になってないです
その気概はないです
この方の都から追放されてからの感じはですね 失意です 気力も体力も枯れはててます
恨みと言うものすらという感じで 都落ち後はがたっと老けたのでしょう?
では怪異はなんだったのか?気のせいなのか?ですが あったと思います
偶然かといいますと 必然で
この方の背後って強力な眷属がいたと感じるんです その眷属が怒ったという感じです
怒ったと言うよりも 起こして火をつけたと言う 死後すぐにではなかったじゃないですか?
亡くなって 非運の死で人々が あれは怨霊になるぞ と噂しあって
朝廷なんかも これは恐ろしいことに~とかって マジで思ってって
その想念が 眷属を起こし刺激し 怨霊化したとかんじます
わたしですね 日本史上の怨霊で 自らが怨霊となったのって 有名な形では崇徳上皇や
数人で ほかは眷属を 刺激しちゃったパターンだと思うのです 先ほど書いた感じや
墓や古墳掘り起こしちゃったり
さてこの方 生前陰陽師(というより 陰陽寮の役人)と結構な交流があったのでは?
とかんじるのです ま、この時代の役人や貴族はあるでしょうが 普通の貴族の感覚よりも
大宰府入りのときに 先頭の従者に 埋めの枝を持たせていなかったかな?とかんじるのです
魔よけの桃の枝ではなく あえて梅の枝を なぜかは分からんです はい
陰陽寮の役人との交流って何かに残ってないですかね さてこの方の眷属って
実は鬼神といいますか 小鬼といいますか ちいさい鬼の鬼神感じます
そりゃあこの方 普段物静かで 発する声も静かだったと感じますが 誰もが聞かざるを得ないでしょうねえ と感じます
もう一つ浮かぶのが 藤原氏のうしろめたさが 怨霊を作りあげちゃったかも?
後ろめたい めっちゃ怒ってるよな やばいよな
その恐怖が怨霊を現実化した 呼んだとも
コメント
以前道真公が天に祈る場面を書いた絵を見た事がありますが、仲々の迫力でした。怨霊(眷属の仕業)から神になられた訳ですが、人間界で神として祭れば神界での神になれるのでしょうか。あちらにはあちらのルールもあるでしょうし人間界での努力とは違うようにも思います。これだけ全国に天神社や天満宮があるのは霊験あらたかなのでしょうね。九州なのでたまに大宰府行きますが?です。
この前テレビでちょうど菅原道真公を特集していて、すごい天才だ‼というくらい頭良い人だったと知りました。(学問の神様になる位ですものね)もちろん努力もあったのでしょうが。 政治にも努力したけど、政治の人付き合いや根回しが苦手なタイプだったのかな、とテレビ見て悲しくなるほどでした。都の自庭の梅を大事に思って、歌も読んだようですし。梅、イコール都の我が家、のイメージだったのかな?と勝手に想像したり。それを大宰府に持っていって都を偲んでたら、せつないなぁとか。
都の藤原氏や政敵はよほど罪悪感あったんですね~。
愛子さまご誕生時に、徳川家と前田家の当主が弦を鳴らす役目をしたと聞いたことがありますが、魔よけのためだったんですね。
徳川さん前田さんという人選も豪華ですが。。。
大宰府天満宮は今でも参拝客が多いって、すごいことですね。
やはり私も甥っ子が受験する時には神頼みで行っちゃうと思います(^_^;)
梅=都の我が家でしょうな~
多分当時の 都から大宰府へ~って
今の東京本社から博多へ転勤という感覚ではなく
もしかしたら 月に飛ばされる~ くらいの感覚だったかも
しかも初老で 今でいう後期高齢者にお前はアフリカに転勤だ!!
位の 生きて都の土を踏むことな2度とない という感覚だったのでしょうな
愛子様ご誕生の時 そんな儀式が!!すごいですね~
徳川と前田家なんですな
結構以外 公家系がやりそうなイメージなので はい
ああ、弓ということで 武家の最高位 大納言まで務めた前田家と
征夷大将軍の徳川なんですね
いまでも皇室って神事にのっとってるのですね!!
「梅」「九州」から思い出したことですが、
以前書きました、奥州の前九年の役において、乱を起こした安倍一族の中で唯一、その知略兼備の才を惜しまれて助命され、九州に流罪になった安倍宗任(藤原秀衡の外祖父にあたります)ですが、彼が京に連行されて、馬上縄をかけられて市中引き回しされている時、ある公家が梅の花の咲いている枝を折って宗任の方に差し出すんです。
そして
「宗任、これが何か分かるか?」と馬鹿にする風で尋ねました。
宗任、速攻で
「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかが言ふらむ」
と返すんです。
公家は絶句してしまって二の句が継げませんでした。
宗任がただ1人、命を助けられた理由がよくわかるようなエピソードですが、
「東北シリーズ」、こちらの方に連想されてこちらに書き込んでしまいました(^-^;)
われわれが想像してるよりも当時の東北 文化が進んでたのかもですね~
都中心の歴史観から離れると いろんな発見ありそう
そういえば 平泉も~まで何里という標識的なものにも金箔が使われてたという説もありますよね~
マルコポーロの東方見聞録の日本は黄金だらけだぞ~というのって
実は平泉を指していたという説もありますし たしかに金閣寺だと時代的に
マルコポーロ以降なんですよね~
私不思議だったのが なぜに奥州に宮廷文化が花開いたかで
他の地方にも都から国司として派遣されたりしてますが そこまで開いてないじゃないですか?
それこそ尾張だって関東だって 大量の金が取れた 都によく献金しその返礼として
文化的な人材が伝えていた もしくはもとからその土壌があった なんでなんですかね?
やはり大量の金 経済的基盤?もしくは昔からの製鉄技術等の土壌?
完全土着というよりも、律令制が敷かれるずっと前から「大和勢力」は奥羽には進出していましたからね。
それこそ、のちの北前船ルートの下敷きとなる航路は、交易・航海氏族だった安倍氏の日本海交易ルートがその前身だったわけです。
蝦夷地の特産物である昆布やアザラシの皮や羆の皮なんかの中央への交易もしていて。
それで羽州の各地に交易の中継地点とするための港も拠点として築きますし。
さらに大事なこととして、当時は天皇も「戦う天皇」であり、のちの公家的な色合いよりも、武の棟梁的な要素の方が強かった時代なのです。
問題は、旧ブログで言っていた中央の「有り様」です。
「三系統」の話です。
決して「一本」ではなかった。複数の勢力が凌ぎを削っており、政権を樹立した勢力が奥羽などに進出してそちらに人員を導入し、兵站線が伸びてしまって中央での人材が薄くなってしまった間隙を縫って、別の勢力による政権簒奪が起こってしまう。
そうなると、前中央政権時代に奥羽まで進出していた人材は「置いてきぼり」を食らってしまうわけです。
こういったことを何度か繰り返しています。
いわゆる、お公家さん的見方、はそうした複数勢力による勢力争いを終えて、「大和」に一本化してからの話です。天皇や上級公卿は基本的に都を離れることがなくなり、或いは少なくなり、狭い都の中でとどまるようになりましたから、
そうなるとこんどは「中央文化の爛熟」が始まります。これはだいたい律令制施行と期を一にしていますね。
でも、上述しましたような「それ以前」ってとても長かったんですよ。
先日、ご縁あって横浜の某神社さんへご奉仕に上がったとき、初めて和琴を前にして、触れました。
弓を六つ並べたのが起源と云われるとおり、六絃で、琴柱にあたるものは楓の枝の二股になったところを切ってきたものと聞いてます。(だからよく倒れるんだよと師匠がボヤいてます)調律はしますが、基本小さなヘラのようなもので六絃を掻くのが奏法で、ああ、鳴弦だ。と実感しました。
大国主命が須勢理比売命と逃げるときに何故琴を担いでいったのか、しかも逃げるときに鳴ってしまってバレたじゃん?とずっと疑問だったのですが、鳴ることで魔を払う、根の国を出るときの祓いだったのかしら?と。そして鳴弦というものが表立ってこないぶん、実は物凄く重要なのではないかと思い始めています。思わず和琴一台欲しくなりました(苦笑)
大国主逃げるとき琴かついでらしたんですね~ 完全に魔除けの鳴弦っすよね!!
かついでちなみに鳴弦は陰陽道でも いろ~んな呪術なんかでも使われてますな~
土御門が全国の民間やらも含めた陰陽師を1元支配しようとした際に
お前のとこは鳴弦は禁止だぞ~とお触れだしてますから