実は旧ブログの過去記事なのですが ははは
さて道真公の妄想リーディングで
旧ブログの頂いたコメントで先祖が呪術系だった 道真公の
とあってメッチャ納得なのです
だってそうですもん 式神のようなのが完全にそっちですし
さてこの方の背後なのですが
神像のようなのが数体見えるんですよ
こんな感じで衣類や帽子が朱色ぽいのが でですね メッチャビックリな事が
よくにた神像をヤフーの画像検索で探してこれだと思って取り込んで
リンク先に飛んだら なんとこの神像 大宰府の民家で見つかって 九州最古の神像で
平安前期の9世紀の作って
半端なくすげ~ 私って!! だって道真公ってちょうど9世紀の人じゃん ヤバイですな
この偶然は
天神様の背後は絶対にこんな感じの神様です しかも大陸の
この方達が驚異的な頭の良さをサポートしてたんです!!
やっぱね この方を ひどい仕打ちしちゃったら 背後や眷属が怒りますよ
怪異というより 怨霊!!と言うくらいの怒りを でですね
伝承のように雷神も動いてると感じるんです これが
さて怨霊というお話でですが 日本史上最も怨霊を怖れたであろう権力者に
桓武天皇という方がいまして
怨霊を怖れて遷都までしちゃったり 歴史で有名なあの方
ですが ブログで取り上げてる東北の阿弖流為
坂上田村麻呂さん 通称まろさんと戦って 降伏して
都まで連行され 殺さないよと言ってたのに 騙されて殺された方
この方に対して 全く怨霊として 怖がってないのです はい
不思議じゃないですか?怨霊となる定義でいえば
官位が高ければ高いほど 恨みが大きければ大きいほど 無念が大きければ大きいほど
そして無実であればあるほど
怨霊化しやすくなり強大な怨霊となるという
分かりやすいとこだと 崇徳さん 上皇だったのですから そりゃあ日本史上
最大の怨霊と化すと思われますね
ということでまたしばらく東北シリーズになるかも?
東北シリーズはですね 心強い読者さんコメがたくさん入るので
私自身めっちゃ楽しいのです どんな内容を勉強できるんだろうと はい
コメント
日本のニ大ヒーローであるウルトラマンと仮面ライダーですが、ウルトラマンの円谷さんは福島県出身ですし、仮面ライダーの石ノ森章太郎さんは宮城県出身で…
何気に関係あるのかなあとか思ってしまいました。
脈絡関係なく、「東北シリーズ」という言葉がなにかそのように連鎖されて考えてしまいました。
なんっすかね~ 地の神 すさのうさんかな~と思ったり
すさのうさん系ってイメージとして やはり出雲のほうのいめーじですが
結構東北に感じたりなのです はい 昔伊勢白さんブログで
大魔神はすさのうさんを具現化した とかなんとか書かれてた気がしましたが
霊的に
ふっと大魔神がうかんだので 大魔神とめっちゃ巨大な埴輪をたして2で割らない感じのようなものを
あとはですね やはり当時の貴族は東北は異民族(というより 違う生き物)
として怖れていると感じます
それがじつは阿弖流為の埋葬と怨霊化してない につながるのです 私的には
昔から不思議だなと思ってたのが 伊達政宗の奥州探題への意識といいますか
この方の行動理論として奥州探題というキーワードあるじゃないですか?
もしかして 単なる正当性 大義名分としてだったかもですが
謙信さんの関東管領に対する意識って 関東管領だから馬鹿みたいに無駄な関東出兵を繰り返さなければならない というもの 武家的なものですが
政宗さんの奥州探題って 貴族的というか 我々は奥州探題で あなた方とは
違いますよ~的な感覚 昔から持ってまして(政宗やな奴~という意味合いではなく)
伊達家の奥州での立場って 公家的な名門的な感覚もあったんでしょうか?
昔って我々が思ってる以上に官位って重かったじゃないですか
(ま、管領って官位というより役職ですが)
頼朝さんもすけ殿と呼ばれてましたが 官位的には中央の係長程度で
かつ関東に流されたとき その官位剥奪されてんだよね~
それでも佐殿と(すけどの)
素戔嗚さん、というのはある意味分かります。
もとさんの表現を借りれば、正確には素戔嗚尊による「クローズ」、私の言葉でいいますと「封印パック」になりますけど。
さっきの別エントリーで述べましたコメと繋がりますけど、安倍氏は元は「阿倍氏」と書きました。阿智使主の「阿」です。まさに氏族そのものが「封印パック(両者による、誓約/婚姻)」で。
牛頭天王を祀る北方系外来勢力を素戔嗚尊が制圧したわけですから…
素戔嗚尊ご自身は宗教には寛大で、服属したなら彼らの祭祀は継続を許したのですが、そのあとの世代はね、恐らく徐々に封印かけていってます。
たとえば、八坂さんは牛頭さん、といってもその上にドカンと素戔嗚尊が乗っかられている。
神社の典型である、主祭神ー地主神 の構図です。
神社の構図は重ね餅
とよく言いまして、先住の神に、それを制圧したより強い神様を重たい漬け物石みたいにどっかと乗っけるんです。
政宗公の奥州探題ですが、やはり武の時代ですし、奥州王としての矜持を示したものかな、と思っています。
いくぶん、「ハッタリ」を含めながら。
何しろ秀吉のあの時代は、中国が懐柔され、九州が制圧され、そして小田原の関東が叩き潰されるまさにその瞬間ですからね。
つまりこのままでは
日本全体VS奥羽 の構図です。
小田原散陣を迷っている頃の
片倉小十郎殿による進言がまさにそれを物語っていると思います。
ウルトラマン、須賀川市役所にいますよ。
ゴジラの卵も滝の近くにあり。
毒蝮さんがいらしてた時、遭遇しました。
芭蕉が泊まったとかの跡もあり。田舎なので、畳のへりまでウルトラマンいます。
田村麿呂さんが通ったとか、その子孫が残ったとか言われる土地は、田村町や田村郡、田村市など残っています。
小野町は、小野小町がどうとか。
静町は静御前がどうとか。
お祭りは釆女祭です。
わたしは踊れます(o´∀`o)
白河はわたしの母方の実家ですので、関も普通に見てました。
跡しかないですが。
白河のお殿様が熊野信仰にはまったとかで、このあたりはやたら鈴木の苗字が多いです。
南東北もそこそこ面白いですよ。
ころんさん
たくさんの示唆に富みますお話をどうもありがとうございます。
ゴジラも円谷監督でしたね。テーマ的にも一貫したものがあって。
坂上田村麻呂公、みなさまにとってのテーマみたいです(私もですが)。
「采女」
もともと、国造の子女が中央に赴き、皇后や内親王の方々への身の回りの奉仕をされていたお役職で、時には帝のお手つきとなることもあったようです。それで身ごもられると、故郷の在地首長の実家の跡取りとなったりしたようです。
ちなみに東国の場合、国造の子息は、舎人(とねり)といってやはり中央の皇族に奉仕に行きます。
中央と地方、天皇と在地首長との絆を深めるための大事な習わしでした。
時代は変わり、武家の世になっても、同様の形式は小姓として残り、将軍や大名と、有力家臣の家との深い絆づくりにとても重要な役割を果たしました。
小野氏ですが、私の住みます東京多摩の田舎も古くは小野県(おののあがた)と呼ばれ、武蔵国における小野氏の一大根拠地でした。私の誓約(うけい)した神社も、そうしたゆかりの神社の一つです。
そのようなご縁ですので
これからもどうぞよろしくお願い申し上げますm(__*)m
翠榎さん
こちらこそよろしくお願い致します。
わたしは何にもわからないので、いつも教えて頂いているばかりです(*^^*)
福島は地味な土地ですが、地味な伝説はあるんですよ。
磐梯熱海にはお姫様が逃げてきた‥とか。
静御前堂とか。
ほんとかわかりません(笑)
松明あかしも、一応有名ですか?女城主のお弔いだそうです。
誰かのおばさんだった気がします。
白虎隊だけじゃないんです(*´艸`*)
山形(父方)と福島(母方とわたし自身)くらいしか知りませんので、皆さんのお話に混ざれませんが、どうぞこれからも色々教えてくださいね。
今ふっと思ったのですが 結局日本の対立構造って 昔から奥州VS中央だったのだなと
中央VS九州ではなく それこそ桓武の時代から 秀吉も奥州仕置きだし
家康も上杉討伐 維新も奥羽列藩同盟と なかなか歴史の流れでみても興味深いです
ある意味、奥羽は、世界の中の日本、みたいなところがあるんですね。
第二次世界大戦の末期が、世界中VS日本一カ国、になってしまったように、
日本の歴史においても、その時代その時代のエポックメイキング(時代づくり)の総仕上げとして、対奥羽戦争は行われてしまうことが圧倒的に多かったようです。
だから、日本全国VS奥羽、の構造となってしまう。
・蝦夷征夷事業(桓武天皇ほか)
・平泉征伐(頼朝)
奥州仕置き(秀吉)
戊辰の会津戦争(薩長新政府)
と、みんなそうです。
例外は、南北朝時代ぐらいでしょうか。
蝦夷制圧事業のように、神代時代から行われていて遂には歴史時代にまで跨ってしまった、大和朝廷による日本全国の統治にとって必要にして欠くべからざる戦いだったものもありましたが、
その外は、有職故実に故事付けてのパフォーマンスのような意味合いのものも多かったですね(頼朝など)。過去の出来事の手順をあえてもう一度トレースしとけ、
みたいな(笑)。
ただ、歴史の始原においては最初っから、日本全体VS奥羽、の構造があったわけではありません。
日本中で、北方から渡って来た連中と、日本土着の勢力との間で派遣争い、相克の戦いが繰り広げられておりました。
大和(奈良)などは日本土着勢力の地ですが、ここは、日本土着の勢力としては例外的に、この原大和朝廷にとってはもっともまつろわぬ勢力の地だったとこんです。
だからこそ制圧したのちにはここに都を定めたのです。
ちょっと時代は遡りますが、九州の一部と瀬戸内の一部との和合(誓約)がありまして、それが天皇家や物部連のルーツになります。
当時(神代)は、九州でも、中国でも、北陸でも、上述しました北方系渡来勢力との相克の戦いが繰り広げられており、日本土着勢力は劣勢を強いられていたのですが、九州勢力からの優れた製鉄技術との和合という僥倖があり、徐々に形勢は逆転して行きます。そして彼ら北方系渡来勢力の地を順次制圧して行きます。その時の日本側の棟梁(いわば、まさに「征夷」大将軍です)が素戔嗚尊でした。
だからこそ、素戔嗚尊は制圧・勝利の象徴となり、その後の制圧事業の継続において、最大勢力である奥羽の蝦夷を代表とするまつろわぬ敵への「封印の旗印」としての存在に昇華を遂げられていったのだと思います。
ましてや、蝦夷の原郷は、その素戔嗚尊が大将として制圧戦を行い、そして屈服をさせた越の韃靼人勢力(記紀神話では『越の八岐大蛇』としてメタファー化)のうち、帰順を拒んでなお越(高志とも。=北陸)の東への延長であった出羽、そして奥州に逃げ込んだ連中です。ですから素戔嗚尊がその制圧戦の「旗印」となるのも道理なのです。
このように、日本各地で制圧を受けた北方系渡来勢力(越と丹波がその二大本拠地になります)のうち、最後まで大和朝廷への帰順を拒んだ連中が大挙して逃げ込んだ地が奥羽であり、したがって大和朝廷にとっては最強にして最後の制圧対象となった、という経緯があるわけです。
なお、越と並ぶもう一方の北方系渡来勢力である新羅人の本拠地であった丹波(当時はのちに分割された丹後を含みます)ですが、この丹波の新羅人勢力の有力な別れが、ジミヘンさんも少し前に仰っておられました吉備になります。その吉備を制圧した事跡のメタファーが『桃太郎の鬼退治』です。
翠榎さま
たいへん興味深いお話をありがとうございます。
こちらを読ませていただいているときに、先日の友人の言「氷川神社って、関西にはないのよね(御祭神は素戔嗚尊)』を思い出しました、『東遊』を聴きながら。そして、2年前の夏に、大宮氷川神社にて師匠さま方が奉納された東遊を見て、舞というより、封印の動きのように見えるなあ、と感じたことも。
なお、東遊には笛、篳篥と共に笏拍子と和琴が必ず入ります。
最も、現代のものがどれほど同時の面影を残しているかは定かではありませんし、思い過ごしかもしれませんが、ふと感じたままを綴らせていただきました。
奥州藤原氏までの奥州って違う価値観の場所だったのかなと。武の方から見たらそそられる武の力がものをいう価値観と最新の鉄の技術もあり。アメリカンドリーム的な感じで。マロ様も阿弖流為を都に連れてったのも多分部下にして奥州を牛耳りたかったのかなと思ってしまいます。平泉の現在出てる遺跡などから考えると壮大な規模ですよね。多分門を開けるというか誰でも受け入れるなんで技術者なども受け入れてもおかしくないような。何と無く平泉以北って奥州藤原氏関係者しか入れない武器製造の場だったのかもと。もののけ姫のたたら場みたいに 笑 それのカモフラージュの意味もあって平泉金ピカにしたのかもと。ご両親の御無事を祈っております。
最初は
九州なら九州、瀬戸内なら瀬戸内の中で、北方系渡来勢力と日本土着勢力との壮絶な戦いがあったんです。
やがて先述しましたように、各地で日本土着勢力(のちの大和朝廷)による制圧、統合が行われてゆき、九州と瀬戸内、やがて大和(大和の先住民は前述しましたように日本土着勢力ですが)と、その統治エリアは繋がりを見せて行き、広域化をして行きます。
奥羽というのは、そうした気の遠くなるような長い相克の歴史の中で、制圧されたあとも、なお屈服を拒んだもの達がその都度逃げ込んでゆき、一大勢力を築いた最後の砦なんです(大江山の酒呑童子のように、小さなものとしては、奥羽以外の各地にも残り、ときおり反乱などの「ぶり返し」を起こしますが)。
したがって、大和朝廷にとっては、その制圧対象はあとはそうした奥羽を残すのみ、となったんです。
おおなるほど!!奥州が最終的に残ったのは立地的な要素と
屈強な何か(たぶん製鉄技術等?)といったものが
あったからなんでしょうか?
どの時代も最後に奥州というのが実はとても気になっていたりで
あとですね 西から東ではなく 東から西へという発想は古代から
あったことはあったんですかえ?将門さんも東から西といえないこともですが
彼の中では関東独立国家でしょうし 東といっても奥羽ではないですから
もしくは 奥羽は基本独立国家を目指す方向だったのでしょうか?
関ケ原の上杉も徳川を追撃しないし たぶん正宗公も20歳若かったとしても
天下に号令という発想はしなかった気がするのです なんとなくですが
ちなみに最近なぜか物部守屋という男が気になってですね ははは ざわつきます
将門公の場合は、父上の良持(良将)が鎮守府将軍職に就いて奥州に赴任しており、一説には将門も幼少期に父に従って奥州に暮らしていたという説もあります。
従って、その「東国独立国構想」には奥羽まで視野に入っていた、という学説もあります。
まずは自身の根拠地である下総とその近国の坂東一円を固めたあと、第二段階の展開として奥羽を統治する計画だったのではないでしょうか。
「東から西」
たしかにそうとも言えますが、将門公や貞盛公の祖父の平高望公(高望王)は都から坂東への赴任ですからね。
そうして自分の多くの子息たちを上総や下総や常陸の在地豪族の婿にしていきました。
だから、西→東→西
でしょうかね。
もっとも、これは、将門のライバルであった藤原秀郷や橘遠保など、当時の坂東における他の留住貴族たちもみな同じなんですが。
みな、寛平・延喜の時代に坂東で猛威を振るっていた「富豪の輩」や俘囚(投降蝦夷が坂東以南に移住させられた者たち)による「寛平・延喜東国の乱」を平定するために都から派遣された中級貴族たちの孫や曾孫たちです。
そして、この「寛平・延喜東国の乱」平定戦こそが、武士階級誕生の契機となります。
マロ様は阿弖流為の命を助けるつもりで 都もOKしたのですが
結局連れていくと NOと助命を裏切り桓武さんというね
停戦の条件に命を助けるYO その代わりに一緒に一度都に行きまっしょ
という感じだったそうですね はい
いやいや 桓武さん これだけ怨霊を怖がってるのに阿弖流為の怨霊化は全く考えてないのです ということはと得意の謎かけ ついでに実は怨霊ってさあ~というね はい
実は平安末期ころまで(貴族政治)って怨霊信仰が日本を動かしなのです
ちなみに勅撰和歌集なんかも 鎮魂の意味合いもと言われてたり
旧ブログによく書いた 和歌=鎮魂説ね はい 歌を詠んで怨霊を鎮めてたり
学校の歴史だと奈良、平安時代ってくそ妻んなかったけど
大人になるとこれほど面白い時代はないぞと ある意味太平記もめっちゃ面白いですが
あれ完璧に オカルトスぺくタルデスヨネ!!
南北朝時代の帝都大戦といいますか じつは作者荒俣さん!!みたいなね ははは
私のNo. 1大河は太平記です 笑
物部守屋公といえば蘇我氏との戦いですが奥州には秋田物部氏がいたり。出羽三山の開祖は蜂子皇子と言われてて。従兄弟の聖徳太子に逃がされ三本足の鳥=八咫烏に導かれ出羽三山に入ったと。役行者様が出羽三山訪れたとき修行が足りんと追い返されたという話しもあって。松島の西行戻しの松とも通じるような。松島の瑞巌寺もマロ様が毘沙門天祀った所に五大明王を〜が始まりらしく。蔵王山も開山は行者様と言われてますが行者様の叔父という話もあり。情報提供でした 笑
中尊寺の鎮守神社の白山神社の縁起に義経公の持仏の毘沙門天を祀り〜(火災で焼失)とあるのでジミヘンさんの過去記事お見事、そしてゾクっとです!毘沙門天って意味ありそうですね。眷属は百足で。百足退治の百足。聖徳太子もマロ様も渡来勢力を動かせたから毘沙門天なのかもと。百足の百済の百繋がりも気になります 笑
奥州のマロ様創建の神社、年号が大同元年、大同二年と大同年号多くて。揃ってるのは国家プロジェクトだったのかなと。翠榎さんのおっしゃる重しにマロ様みたいに。ある方に八幡神は大同団結みたいな意味もあるのではと言ったら大同年号もそんな意味あるかもしれませんねと言われオッとしました 笑
まつろわぬ民の制圧は大和朝廷にとっての悲願事業でしたからね。
本当に長きに渡りました。
「坂上田村麻呂公がクローズ」は、
彼の始祖である阿知使主命が、久米の族長・息長帯姫命(神功皇后。実はご即位されていて息長帯姫大王)とそのお世継ぎである誉田別大王(応神天皇)の二代に渡る政権に参画した由緒に因んでのものであると思われます。
息長帯姫大王の御代が「封印パッケージ」の画期になっております。
息長帯姫大王のご斡旋のもと、和人勢力と、北方系渡来勢力の代表であった丹波の新羅勢力の族長・弟彦王との和睦の誓約が赤石の浜にて行われました。
そんな経緯から、田村麻呂公は、蝦夷制圧の最高指揮官である征夷大将軍に任命を受けた時、そんな息長帯姫大王ー誉田別大王ー菟道稚郎子大王(宇治天皇)の三代に渡る執政府(=皇居)であった宇治の許波多神社に赴かれて、戦勝祈願を行われたのです。
自身の先祖である阿知使主命が行った制圧、あるいは和睦の事跡の再確認、再決意、もっと言うと「再起動」の意味合いを込めてのものであったでしょう
なお、和睦後、弟彦王の子孫に和気姓が与えられます。
和気広虫、清麻呂の姉弟はもちろんその子孫にあたられます。
あー坊さん
こちらこそ、東遊びの貴重なお話を大変分かりやすくお聞かせいただきありがとうございました。
お陰様で、その東遊びとも底流において繋がりがあると思われます、『春日大社若宮おん祭り』にて奉納される細男(せいのお)などに対しても改めてじっくりと考えてみることとなりました(春日大社主祭神四座の内、その上位二座が東国からの勧請になります)。
たしかに言われてみますと、雅楽や舞は鎮魂ないしは封印そのものですね。
また、
唐風文化が終わりを遂げ、
国風文化が花開いた時代に、なぜ東遊びが宮廷主催の奉納舞のいわばその中心に据えられたのか、
その理由などに対して深く思うところがありました。
それから氷川神社のことですが、同社が主にご鎮座する地域は首都圏でも北東部の荒川流域にほぼ限られ、いま私が住みます東京西部になりますともうほとんど見られなくなります。
また、以前私は東京東部の葛飾区(旧下総国葛飾郡)に住んでいたのですが、あの辺りは香取神社群の鎮座地の西限地域であり、その首都圏南東部である葛飾区と、
その北隣の足立区(旧武蔵国足立郡)との境界線の辺りが、下総国一宮である香取神社奉祭エリアと、
さいたま市大宮を中心とする氷川神社奉祭エリアとの境界線であると言われておりました。
また、その中間点である綾瀬川〜中川流域にかけましてが、まるで両神社の緩衝地帯であるかの如く、久伊豆(ひさいず)神社という神社群の集約的にご鎮座する地域であることが大変に興味深く思われたものでした。
改めまして、これらのことについて再び掘り下げて考えてみる機会を提供していただきましたことを深く感謝いたします。
翠榎さま、ご丁寧なお返事ありがとうございます。お返事に気が付かず、申し訳ありません。
何の偶然か、コメントを付けた数日後、お師匠さまより今年の8/1に大宮氷川神社で東遊がありますよと、連絡をいただきました。11:00くらいからであったかと思います、お休みを取って見に行くつもりです。
また、氷川神社に関する興味深い考察をありがとうございます。
私、生まれが浦和で、ここには氷川女体神社と、中氷川神社があり、大宮氷川神社と合わせてオリオン座の三つ星を模しているという奇説を見かけました(何故か今検索をかけてもその説がヒットしないのですが)
荒川も、名が示すとおり、かつては氾濫が絶えない、荒ぶる川であったと聞きます。そして氷川神社の鎮座ましますあたりは、かつては稲作の盛んな田園の広がるところでありました。
埼玉というところも少々不思議なところで、大宮から少し離れた川越にも氷川神社がございますし、そこからほど近いところに高麗川という地名があります。また大宮より北上しますと、県名の由来となりました埼玉古墳群もあり、渡来人との縁を強く感じずにはおれません。
私事で恐縮ですが、笙と右舞を習っておりまして、習ううちに不思議に思ったのが、雅楽には左方(唐系)と右方(朝鮮系)がある、ということ。何故1つにしなかったのか?拍子の取り方も、使用する楽器も違うから?舞も左方と右方では舞いかたが全く違います(傍目には同じようなものですが)では、何故左方と右方という分け方にしたのか?そして御神楽はまた別物であったり…などなど。長の年月のため、伝承の間に変貌を遂げているとは思いますが、雅楽に残された古代の記憶を辿ると、何かが見えるかもしれない…そんなことを思う今日この頃です。
この記事にコメしたくなったので 笑
奥州深題=鎮守府将軍なのかもと。秀衡公も鎮守府将軍ですし。マロ様も征夷大将軍よりも鎮守府将軍の方がふさわしいのではと。奥州を治めるもしくは鎮めるにはマロ様、東漢氏、阿氏の血脈が必要なのかもと。