さて質問で墓じまいについてきました 多分親が子供に迷惑かけたくない等で
墓じまい検討されてるとこ多いと思うのです
磯野家もカツオが決意したやらどうやらという噂も ははは
その方は墓じまいしたらどこに手を合わせればよいか?と
というお話 まず前提として 私ぺいぺい以下の小僧以下なので仏教的に
正しい云々は分かんないので
あくまで私の意見ということで
まずお墓に亡くなった霊がいるのかどうか?そこ気になると思います
もしいるなら お墓って必要だし手を合わせる意味もあるよねと皆さん思うかと
じゃ、もしいなかったら 必要ないのか?
そのあたり私正直分からんです 霊がいるかもだしいないかもだし
ということ前提で私の考えね
旧ブログでも結構書きましたが さて命って誰のもの?というとこからです
私の場合
さてその前に~
命を企業というものの置き換えて説明ね 会社って誰のもの?
昔だったら社員やその家族でしょ?
今はですね ステークスホルダーという概念が今主流でして
その企業にかかわるすべての人のものって
経営者、社員、家族、取引先、株主、消費者~と範囲を広げればどこまででも~と
命も同じだと思うのです じぶんだけのものと思うのは そりゃあ不遜でしょ!!
もっと言っちゃうとですね~
年をとればとるほど 自分のものというより周りの大切な人のものというね
これ 父が癌の時 延命はいらんとか 葬式はいいから散骨で~とか言ってたわけ
もうね 説教ですよ!!説教部屋 ははは
あのな、お前なにいっとんのだ!!と前田日明口調で
命というのはあんただけのものじゃないんだぞ~
しかも年寄りの命は自分のものというより家族や周りのためのもので
あんたはしぬからいいけどさ~ ○○(母)や我々があの時もっとこういう治療すればよかった~とかって思いは一生背負ってくんだぞ~
延命も可哀そうとか無理やり生かすのはという考えもあるけどさあ
家族としてはいきなり何の心づもりも無しで亡くなられたら たまらんじゃん
遺族の思いは?死んだらさあ 2度と会えないわけじゃん
だったら延命治療の間に 家族も後悔しないようにいろいろやってあげたり
出来るじゃん どうせ後悔はのこるけど
その後悔という十字架を少しでも軽くするのは 大事だよね~と
私 基本なくなる方よりも残された方の気持ち大事にするほうなので はい
ということで 続く
コメント
生命は本人の気持ちより家族優先がステークホルダー、ならば本文とは逆の例はどうでしょう。
本人は、ギリギリまで治療して半分死体になっても生きていたい、葬式は友人関係を呼んで盛大にやって欲しい、遺骨は墓に入って未来永劫手を合わせて欲しい。
しかし家族は、苦痛と出費を生むだけの延命治療には反対だし、葬式は金と労力の無駄でやりたくないし、信じてもいない霊界のためのガラクタ墓など必要としていない。
ステークホルダーに従い、家族の希望を優先させ、延命を打ちきり死亡させ故人の友人を無視して葬式は行わず、遺骨はゴミとして破棄するのは良いですか?
あとステークスホルダーの枠を家族を超えた社会全体まで広げた場合、医療負担や生命問題の再検討は必然的であり、延命の短縮やサービスの変革を強いられることになるかも知れませんが肯定できますか?
逆パターンですね 考えたことなかったのでわからんです はい
ただですね
そんな極端な例を想定しなくて 常識的な という判断基準ではだめっすかね?
一般人の場合のステークスホルダーって想定でも そこまで広がんないじゃん
逆に例えば陛下や社会的に大きな存在感を持つ国民的スターでしたら 肯定かも
うちの両親や近所のおばさんがなくなりそうという場合
普通に考えて社会全体がとはならないと思いますので
多分常識的にね~という前提条件を外したら 議論は進展せずというか
議論にもならん気がしまっす なんとなく屁理屈の取り合いになるみたいな
前の質問も社会常識に合わせた範囲でと考えたほうが 遺族はごみに捨てたい
さて捨てたら 親戚や近所でたたかれるでしょ?
まずは社会の一員として常識的な範囲でですかね~
長らくロイヤルファミリーを演出してこられた今上天皇だけど、基本的に日本国の主権者である国民を動かそうとするような意思を表してはならないことになってる。
国民による政治が絶対優先なわけ。
しかし生前退位の表明はその常識を壊しかねない危険な事件だった。
結果として、常識破りだけど限界にさしかかった老齢の国父の意思に沿うかたちで国民の意識や政治が動こうとしている。
可能な限り故人の意思を尊重するというのもこれ日本人の常識だと思うのね。
天皇陛下ですら最後に荷物をおろせるのに、いつから一般のお父さんの最後に家族安泰の人身御供を要求するのが常識になったの。
お父様は残された家族のために〜とか言ってるけど要は自分を楽にさせてくれって話だよね。
だから家族を楽にさせたいなら家族がやりたいようにさせてやれという論理は噛み合うはずはないんだよ。
難しいことはわかりませんが
ずっと、不妊治療をしてきて感じたことが
ありまして、昔は結婚したらすぐに子供ができて、色々苦労しながら育てて、自分は年老いていくんだろうなと思ってたんです。
でも、今の最新の医療技術を持っても病気や年齢関係なく子供って簡単にできるものじゃないんだな。
自分が生まれてこれたことって、本当にすごいことなんだな……ってつくづく感じたんです。
無事に生まれてこれても、様々な理由で生きられないこともあるし。
子供から、大人になるまで、どれだけ沢山の支えや愛情があって自分は生きてこられたんだろうって。
大人になって家庭を持ち、病気になり治療が辛かった時も、もう嫌だってなった時も
自分一人だけだったら、頑張れなかったかもしれない。
家族やまわりで支えてくれる沢山の人達のためにも生きていたいっ!て思ったから今の自分がある気がします。
闘病って、本人が一番つらいけど、まわりで支える家族もつらい。
大切な家族に経済的にも精神的にもそんなつらい思いはさせたくないって思う気持ちも分かります。
それでも、命は自分一のものじゃないと私は言いたいです
ま、みなさんそれぞれでいいんじゃないですか~ 命って答えでないし はい
私はそう思ってますというだけの話で 違うと思う方もそれでいいと思いますってだけの話
人それぞれでぶったぎるならどうでもいいでしょう。
ステークホルダーやら社会や常識を考えるなら意味は変わってくるんですよ。
埋葬で故人の遺志により香典や花を辞退というのは昔からよくあるパターン。
これは故人の遺志が本当にどうであるかは関係なく、対外的に故人の遺志という体裁が水戸黄門の印籠のような力を持つから使われてるの。
同様にすれば、散骨という名の遺骨破棄もおそらく社会的常識に問題なく可能ですよ?
長寿を絶対的価値観としてきて延命をやってる日本の終末医療も、ステークホルダーでそろそろ新しい常識による転換と向きあうときが来ているのではないかと思う。
なんで日本の医療が先進諸外国と比べて延命によって圧迫されているのかというと、宗教が死から始まる形式だけで、死に至るまでの精神に属する意思がスポッとぬけてるからじゃないのか。
治療と一体化してないんだよね。
ここで語られてる終末まで家族か抱えるはめになるズシーンとした重さね、それを外国では宗教が替わりに持ってあげてる部分があるんだと思う。
終末期の考えはですね 正直正解ってないと思うのです
例えばご飯食べれなくなった時 胃婁にするか もしくはもうそれが自然の摂理なので
としないか
議論ってしようと思えばいくらでも 人権の立場や家族や介護に携わる方の立場
本人の立場 それこそ国の介護にかかるお金の立場
それらによって全く違う様相が
ただわたしは 皆さん大変な思いされてるから どれを選択しても正解かなあと
その宗教~という部分 私も思うことが 今回の幸福の~の出家とからむのですが
記事にしまっす 伝統仏教ってそのあたりの教えや理論体系って しっかりあるとこはあると思うのです
例えば信仰なんかの理論やらも 新興宗教よりも 伝統が違うじゃん
ただそこの発信力という部分 伝統という名に胡坐かいて
そこを新興宗教やスピにもってかれてる感が もったいないです
仏教だけではなく神道なんかも と未熟者の頭の中では感じますな
新興宗教って結局 そこ重視で信者増やしてる部分大きい気が