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源平合戦に見るやりすぎはダメよ

過去記事のコメにですね 実は源氏は無敗じゃんという内容を見つけて

言われてみれば

幕府が倒されちゃったときは源氏の血脈は途絶え北条ですし

平家打倒で局地戦では破れてはいたり地方で鬼神為朝さんが

負けてたりしてますが

中央の大事な戦って確かに無敗!!

頼朝の親父が清盛さんに負けてますが

あれだって源氏同士が敵味方に別れたりですもんね

そう思うと八幡様ってもしかして日本最強の軍神かも?

思っちゃいますね

もしかして軍神義経も八幡様(神格化された八幡太郎義家)

が源氏再興のためにこの世に産み出したんじゃないか?

ふと感じたりなのです

な~んかそんな感じがします といいますか絶対そうです!!

もしかして八幡太郎義家の血が一番濃いのが霊的には

義経かも

どちらも奥州に縁が深いですし

ブログで義経と毘沙門天は書きましたが

もしかして義家さんも毘沙門様と縁が深いかもですね~

さて平家の象徴清盛さん

この方やりすぎちゃったんですよね~

保元の乱という戦いで清盛さんに頼朝のおじいちゃん為好が負けちゃったんです

そしたらですね

為義を息子の義朝(頼朝のお父ちゃん)に処刑させたんです!!

なんと非道な

今までの日本の歴史で息子に父を切らせるってなかったことなんです

(たぶん)

そりゃあ酷いですよね

そんなことしたら子孫の代まで恨まれます!!

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で次の平治の乱で清盛さん義朝を破って平家の世にしたのは

承知の通り

その時最大の失敗が息子の頼朝、義経、範頼を殺さなかったことなのです

いまだったら頼朝さん 殺されるとこを清盛の寛大な処理で命救ってもらえたから

あ~助かった 清盛さんには足向けて寝れませんとなっても良いものですが(ま、ならんけど)

やはり源氏の一族郎党にしたら深い恨みになってますよね

やりすぎは良くない

もしくは戦国の世の習わしでやるからには禍根を残さないように

徹底的にやらねば

後々やられちゃいます

中国なんかだと九族探し出して皆殺しにして且つ

先祖の墓まで暴いちゃいますから

結局頼朝を尊敬し 戦国一の読書家(愛読書は鎌倉幕府の歴史書

吾妻鑑)だった家康って

最晩年に秀頼を殺す決断をしたのって

これを見てたからじゃないかな~と思ったりなのです

自分の代で禍根を絶たないといくら徳川の世とは言え

子孫の代で災いが起こるみたいなね

そのあたり清盛と違い家康さんは現実主義者です!!

この方はリスクマネジメント完璧すぎ!!

何度も書いてますが徳川を倒すなら薩長が手を組んで天皇を味方につけると想定の元

薩長の上洛ルートに巨大城群を作り (姫路、大阪、名古屋みたいな、

それでもだめなら宇都宮に逃がしますよと)

朝廷は諸法度でがんじがらめに動けなくして

且つ最悪徳川が天皇というカードに負けたとしても

家名は残すように御三家の水戸藩だけは勤皇(天皇万歳)と

させていたという これ以上はない完璧なリスクマネジメント!!

ま、それでも徳川幕府が倒されるから完璧ってないね

まさか東海道ではなく蒸気船で上洛して

その水戸藩の代々の研究の勤皇という思想が

倒幕組のイデオロギーとなっちゃうなんて

家康びっくり!!

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コメント

  1. 美人特派員 より:

    清盛が頼朝を殺さなかったのは、確か継母の池禅尼が命乞いをしたからでしたよね。「死んだ息子に似ている!」とかで。この死んだ息子が本来なら家督を継ぐのはずだったので清盛は負い目があったのかな。「あんたは私が継母だから願いを聞き入れてくれないのか!」とも言われたとか^^;

  2. misato より:

    おはようございます。
    千葉の市原市にいる男性霊能者さん
    前世 源頼朝と言ってました。
    インチキ霊能者にダマサレルナの本にも
    堂々と。
    真実は その方に聞いてみれば❔

  3. チャム41 より:

    奥州では前九年後三年にちなんだ八幡太郎由来の八幡神社も意外とあって。鎌倉幕府成立後に頼朝さんもしくは政子さんがやったのかなと。何となく征夷大将軍のマロ様由来のとこ上書きしたのかもと思ったりで。八幡太郎と毘沙門天縁深いってありえるかもしれませんね〜。マロ様も毘沙門天と縁深いですし、八幡神様は八幡大菩薩として現われてますし。

  4. jimi より:

    私も清盛は実の母にだったら受け入れなかったと思います
    継母だったから 仕方なく受け入れたんだと
    ただ歴史に意思があるとすれば やはり源氏の世になったのでしょう

    なぜなら力をつけてきた武家たちが自分の土地の所有を認めてほしい!!
    それが民意で平氏は(貴族社会も)認めず頼朝はその空気を鎌倉という
    当時の辺境の地に流されたことで察知しその権利を認めたからこそ

    周辺豪族たちの総意を得られたわけですから