さてどこぞの記事に伝統の話をチラッと書きましたが
ちょっとその話
これですね
あくまでも私が考えてるだけで実は間違いかもしれないですが
さて伝統のあるものあるじゃないですか
武道でもなんでも お料理やお花もしくは宗教だって
私思うに絶対に変えてはいけない核の部分と時代性によって変えていく部分というのがあるのだと思う
それをひっくるめて伝統というものかもって
変えてはいけない核の部分 これを変えるのは絶対ダメで
そこかえたら根本から変わってそのものでなくてもよくなっちゃう
何百年かけて作り上げてきた核の部分が無駄になっちゃう
例えば武道の型というものを非合理的ということで一切やめたら
武道ではなく単なる格闘技になっちゃう
宗教の教義、法という部分をやめちゃったら(信仰というとこかも)単なるスピになるみたいなね
逆に時代によって変えていくものを変えていかなかったら時代に取り残される
といいますかその時代で使えないもの
単なる形だけのものになって実践では必要なくなる
時代に即していないものは形骸化していくといいますか
多分天才と言われる方たちってそこが意識無意識にかかわらず
分かっていたんだと思う
残すべき、守るべき核の部分と時代によって変えていくべき部分を
しかもその割合というのまでわかっちゃうというのが天才なんだと思う
私思うに本物といいますか 今でも使えるといいますか
そういうものってじつは
古くて新しいのだと思う
古いだけではなく新しいだけではない
新しさの中に伝統の力がしっかりと入っているといいますか
古いだけでなく現代でも通用しすぎますみたいなね
多分そういうものが何百年と残るものなんだと思ったり
その核が何なのか その本質に気づく才能というのがめっちゃ大事なのだと思う
私が凄い天才と感じる方の中に柳生連也斎という方がいまして
尾張柳生の2代目でして
ま、天才と称される剣士
この方ですね 私の感覚ですと残すべき核の部分と
変えるべき時代性の部分の見極めというのが天才的にできた人なんじゃないかと感じるのです
武術の世界でよく言われる見切りという言葉
この方の場合は武術以外でも物事の本質を見切る天才性が凄くあったんじゃないかと思うのです はい
ちなみに最近の武道家では物事の本質を見切る天才
(特に武術の本質を見切る天才)ということでいえば
多分喧嘩10段の故芦原先生なんかも天才なんじゃないかと思います
この方空手家としての技量や発想が天才だったとよく言われますが
私思うにそれと同じくらいに物事の本質を見切る天才だったんじゃないかと思う
まあそういう方って 身近にいたらめっちゃ怖いですよね!!
コメント
「表の世界、裏の世界」というネット小説があります。
「夜伽巫」という概念が出てきて、「神使に好きだ、愛している、といった感情を向けるのと引き換えに、神使が人間を助ける」人のことです。神使は普段は声だけで、目を閉じるとまぶたの裏に姿をイメージできる設定です。
このような、核を残す神様との新たな関係の持ち方も、今後はでてくるのでしょうか。
なお、この作品の第3部後半はリアルオカルトバトルということで、術のようなものが大量に出てきます。古典的な術とは全く異なるものですが、もしかしたら核が残っているので、現代では実現できるのかもしれません。
あしわらさん 若くして亡くなられたのね
千葉真一さんとぜんぜんタイプ違うわ 当たり前だけど
千葉さんは 俳優だしね(笑) 倉田保昌さんも思い出した(Gメン75なつかしい~
)
古いけど 新しい時代にも受けて使えるものって
備長炭 へちま 亀の子だわし かつお節削り器 すのこベット 竹かご
木造建築 竹酢液 湯たんぽ シルク 綿 麻 竹の天然素材の衣類 寝具
天然素材ブームはまだまだこれからもっと伸びます。
化粧品 食品 衣類 日用品など
古いけど新しい時代にって製品そのものよりも本質的な部分が実は核で
例えば炭だったら天然で吸着という特性が核なんだと思うので
その特性を生かした時代に会った製品に的発想が大事かと
武道なんかだとその武道の特質である身体操作を活かして現代のMMAに対応
そんなアプローチ
武道だけど型やらそういうの一切やめて総合のスパーリング中心にとなると
もうその武道ではなく単なる競技としての総合格闘技となってしまって
だったら武道習うより最初から総合行ったほうが変な癖もつかないしいいよねって
いかにその武道で勝つかを研究のほうが