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果たして福島正則は本当に馬鹿な猪武者だったのか??

さて福島正則の続きです。前編は旧表ブログにあります。

家康が最も警戒してた証拠にまず関ヶ原の後に安芸48万石(だっけ)に転封でしょ?
これは働きからすると大盤振る舞いすぎ

明らかに気を使ってます

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ついでに黒田長政が論功賞で一番じゃないですか?
これは福島正則を説得した功績がでしょ。

いのしし武者で馬鹿というイメージですが 領国経営も上手ですし 実は善政の名君だったのです

ただ短気でプライドがというのはある種のかんしゃくもち気質だったと思いますね。
ですがそこは武将ですから ある意味気性が激しいのはよしとされる時代ですから。

家康の死後言いがかりとしか思われない内容で4万5千石に転封されてるじゃん
これは家康が生きてる頃に自分の死後は改易OR転封しろよとあったのでしょう。

ちなみに加藤清正の加藤家の取り潰しも、家康の6男忠輝の改易も家康からの遺言(?)
というか生前に決めてたことでしょう

自分が生きてる間は押さえれるが 死後も大丈夫だろうが万一のことが という感じで。
ではなぜ加藤家は取り潰しで福島は転封か?

加藤家は清正がなくなって代替わりしてたというのが ではもし存命中だったらどうでしょ?
多分清正が言いがかりすらつけさせれないほどの対応をして存命中は大丈夫

どっちにしろ死後は改易だったでしょう 福島家は?正則死後だったらやはり改易だったでしょう
ただ存命中だったので それほど関ヶ原の正則が東軍に味方したという大きさを

なんだかんだで家康は恩義(ちょっと違うが)は感じていたのでしょう
改易にすると目覚めが悪いというかそんな感じはあったかも ま、家康は死んでるんだけどさ

ちなみに清正と正則 秀吉はどっちが可愛かったといいますと 正則でしょうなあ
どっちも凄く期待して可愛がってましたが 正則は馬鹿ほど可愛いじゃないけど

単純で自分になつく そりゃ可愛いでしょ 清正は聡明でとても見所がある(無論武の人)
という感じで頼もしいというか そういう感じだったんじゃないかなあ

さて清正と正則 この二人凄く良いコンビですね 史実の通り正則に唯一正論を言えて
正則も素直に聞かざるえない相手が清正だったのではないでしょうか

例えば内府殿の言うことは 腹も立つしですが聞かざるをえない 清正の場合は うー!!・・・

という感じで言葉が出ないというか そういう感じですかね 正則にとって秀吉は親父であり
なのでしょう 親父と言っても本当の親父ではなく政治家が角栄さんを親父と呼ぶという感じでしょう ねねさんは 相撲部屋なんかの女将さんでしょうね

さて難攻不落の大阪城 よく考えたら大阪の陣って築城後30年たってるんだよね
30年前の計算では大砲が本丸に届くってことはありえなかったんだよね

と思ったりで 私的には西南戦争で 当時最強の西郷率いる薩摩兵を撤退させた清正の
熊本城が 戦国時代末期に舞台となってほしかったですね あの石垣攻略できるのかって?

多分北条攻めのように包囲して開城を待つとなるんでしょうが みたかったですねえ

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