さて徳川家康さんのリーディング後編
前編は旧ブログの表ブログのどこかに
さて家康さん 行動指針が猜疑心からと書きました
戦もですね 三方が原負けるの覚悟で信玄と戦ったわけじゃないですか
大阪の陣も豊臣方なんかさあ~って強がって甲冑つけなかったじゃないですか?
ま、高齢でというのもありますがなぜそこまで?ですが
根柢には自分が戦う姿勢見せないと家臣が裏切るのでは?
付いてこないのでは?なのです
ま、大阪の陣は高齢が大きかったでしょうが 裸族なんですか
じゃ、今度は裸族で 笑
とくに若いころは自分からの姿勢見せてたといってますし
実はその猜疑心は1番どこに?ですが
家臣団なのだと思います
三河武士って鉄の団結でと思われてますが
結構裏切ってるじゃん
石川さんなんかは当時の株式会社徳川の副社長といいますか
大阪支社長といいますか
その方が会社の最重要の内部機密を全部持って
ライバルの豊臣財閥に引き抜かれたり
でですね 、結局何を信じたかといいますと
身内なんですね
血のスペアというのもそれなんです
御三家というものの創設も譜代は石高を抑えて要職につける政策にしたでしょ?関ヶ原以降
これってメッチャ賢いよね
政権運営はさせてもお金(軍事力)はつけさせませんって話でしょ?
後継者選びも結局は猜疑心といいますか
2代将軍を凡庸な秀忠にしたのも武勇の誉れ高かった長男は結局豊臣家に一度養子にでてたじゃん
裏切るかも?3代将軍の家光も(馬鹿でホモといわれてた)
弟の駿河大納言をという声も多かったがそうそうに家光ときめたのも そういうことでしょ?
等々あるのですが
ですがこの方
その猜疑心を危機管理に変えたというのは凄いですよね
そこで皆さん疑問が
なぜに三河の一向一揆で敵にまわった本田正信を後に最も重用したのか?
不思議でしょ?
官吏として右腕として圧倒的な能力だからだけではないのです
巷では天海がブレーンのイメージですがとんでもない
正信さんの足元にも及びません
数々の政策って結局正信さんとの2人3脚ですから
話し代わりますが
あらたに見つかった秀吉の手紙で信長と呼び捨てに書いてたと
書いたでしょ?
信長死後かなりそんな感じだったんだと思うのです
遺児やらの扱い見ても
その手紙知ったとき浮かんだのが
以前も書いたが年寄は夢に殺される説の
晩年の秀吉は信長の幻におびえ殺されたなということです 認痴(だったと感じます)となり
信長の幻影におびえ続けていたと感じますねえ
ちなみに家康の息子達で1番将軍させてみたかったのは紀州候なんですよ~
世が戦国だったらと思います はい
頼宜さんが関ヶ原の頃に働き盛りの壮年だったらどんなさっそうとした
戦いぶりだったでしょう!!
福島さんあたりの強者相手にもひるむことなく逆に威圧してたかも?
正面突破図った島津勢を最後まで追っかけていきそう
そして後で家康に怒られながらも家康は実はうれしいみたいなね
コメント
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