さて最近表ブログで織田信長リーディングしてまして
浮かぶ浮かぶ!!
歴史学者さんやその辺の歴史好きおっさんたちの永遠の謎
桶狭間の戦いの真相も実はこれが真相じゃないか?浮かぶのです
じつは私も以前から義元は上洛するつもりじゃなかったのでは?
と思ってましたが
ここのとこその説に疑問なのです
実は上洛しようとしてたなと
というのも塗りの興を持って行ってたんですね
ちなみに都では将軍しか乗ることが許されておらず義元公は乗ることを
許されてまして
ただ母国の駿河では乗った記録がないのです
ということは都で乗るつもりだったのでしょう
でですね
上洛説のように武力でで制圧のために上洛ではなかったんじゃないかと感じるのです
いわゆる顔見世のための上洛 都で今川義元の顔を売るためといいますか
この方お公家風の文化人じゃないですか
輿に乗ってある程度の軍勢も率いて都に入る
そして都に(畿内周辺の大名)今川公は武もすごいが文化もすごいぞ~
そんなパフォーマンス上洛のつもりだったかも
ではお隣りの信長に対してはどうか
よく言われるように尾張を殲滅するつもりだったか?
実はそのつもりはなく 都に上洛してる間に隣の小僧(信長)が
悪さをしないように少し懲らしめとくか程度の感覚だった気がするのです
なので支城の砦を軽く攻撃して力の違いを見せつけて
悪さしないようにくぎうっとく程度で
ではなぜ桶狭間で信長公は奇跡的な勝利を収めたか
永遠の謎じゃないですか?
迂回したのか正面衝突だったのか
私の感覚では正面衝突なのです がその説でいつも疑問とされる謎
何故2000対2万で今川が負けたのか?
普通はあり得ない
それこそ島津得意の伏兵忍ばせての挟み撃ち的な戦いならまだしも
たんなる正面衝突では
で浮かんだのは実は今川って2万も兵を連れてなかったんじゃないかな~って
もしかしたら半分以下かも 6千とか8千とか
しかも軍勢の割合が小駄荷隊という軍人さんではなく 食料やら運ぶ佐川さん的な人たちが通常より多かったかも?
先ほど上洛説でしかも武力ではなくと書いたじゃないですか
ということは一番のネックって静岡~京都までの何千人分の旅中の
食料やらがネックになるじゃないですか
当時の調達って基本やっつけた領地で略奪中心
ですが今回は武力でやっつけないのでそれができないということは
大量の食糧が必要じゃないですか
しかも補給というのが上手になったのって信長の時代位からですから
となると実は2万人の軍人さんを京都までえっこらせっと連れて行かなかったんじゃないかと感じるのです
桶狭間時の信長の兵力って2000じゃないですか
これって信長的には一世一代の大勝負なので彼の最大動員能力に近かったと思うのです
逆に当初義元は信長が人生かけての大勝負なんか出てこないと踏んでたと思うので
まあ小競り合い程度の戦が起きても500~800くらいの相手の兵数じゃないか~
だったらこっちは10倍の5000~8000連れて伽大丈夫でしょ~
そんな感じだったと感じるのです はい
ということで続きます