表ブログのいじめコメなんかでもですが やはり因果ってあると思うのです
私の好きな日本史なんかでも
戦国きっての名将として、最強の武将として名高い武田信玄と上杉謙信
この二人とその後も両家を見てると因果って確実にあると思うのです
まず武田信玄の武田家 結局滅亡しましたよね
上杉家 関ヶ原で負け組となり改易だって普通にありえましたが生き残り
江戸期を通じて武門の名家として名高かったじゃないっすか
謙信公以来の武門の誉れの家柄って
これ謙信公と信玄公の陰徳と業の差じゃないかと思うのです
ということで謙信公
この方生涯不犯だったともいわれてるじゃないっすか
多分14歳でお寺に出され出家してる
しかも凄く熱心で優秀な小僧さん
なので仏教の戒律の不犯を生涯守ったんじゃないかな~
この方を生涯縛り付けて普通に考えてマイナスにしかならなかったものに関東管領を譲られたということがあります
さてどういうものかといいますと 室町幕府を足利尊氏さんが京都で開きましたが 本来は武士の本拠関東で開くべき幕府だったんです
それこそ鎌倉に
ただ京都には油断できない大天狗後醍醐天皇がいらっしゃり離れられない
仕方ないので将軍の代わりに関東を支配する管領というのを派遣して
それが上杉さんという方(ちなみに謙信さんは長尾さん)
結局のちにその上杉さんが北条家にやっつけられ逃げた国が越後で
上杉さんが感動する位助けてくれたのが謙信さん
上杉さんには子供がいないのであまりの感激に上杉の養子にして
管領にまでしちゃったというお話で
本来謙信さん役職で言えば京都より東の将軍さんなのです
がこの管領というのが後世の我々から見てもとうじの周りから見ても
厄介なものだったのです
が謙信公だけは多分ありがたい ありがたいと思ってたのです
謙信さん自分で護摩焚いちゃうくらい毘沙門天信仰してたじゃないっすか
というより多分ガチで毘沙門天の生まれ変わりと思ってた感も
それほど信仰してても実は毘沙門様って謙信公の願いを聞き入れなかったんですね
たぶんそれは仏の請願に合っていなかったから 毘沙門様の思いに合致してなかったから
それは何かといいますと 北条家を倒して関東を掌握することなんですね~
なぜって関東管領だから
謙信の中では天下統一と関東統一どっち取る?と言われたら迷うことなく関東統一だったのでしょう
そのために生涯にわたって全く無駄で徒労に終わる関東征討に何度も行って
ついでにやらなくてもいい信玄との川中島に明け暮れたという
領土的には結局一文の得にもならない
というか時間とお金と兵力ばかり無駄に使う人生になったのです
はっきり言って家臣にしたらたまらんかったと思いますが本人にとっては幸せだったのかも
さてこの損得で言えば大損人生なのですが
多分この大損人生が陰徳につながってるんじゃないかと思うのです
関東支配も自分のためは一切なかったと思うのです
管領という職務を全うするため、自分に管領職を譲ってくれた上杉さんのためだったと思うのです
この陰徳が結局子孫に回って名門上杉が残ったんだと思うのです
実は上杉家って謙信死後景勝さんの時代に
織田軍に攻められマジで滅亡寸前まで追い詰められてたのです
それが本能寺の変により奇跡的に助かり
なおかつ関ヶ原のきっかけとなった徳川挑発~西軍敗走の憂き目にあい
ここでもおとりつぶしの可能性大でしたが 何とか生き残ってるんですよね
人間こっそり陰徳は積んでおくもんです はい
それと対照的なのが信玄さんで次回
コメント
スケールの小さい話しなんですが、
昔の職場に愛想が良いのですが、仕事を人に上手く押し付ける同僚がいました。
ある時、彼女の子供がいじめられていたと話してくれました。その内容は、学校帰りみんなのカバンを持たされる、いじめにあっていたそうです。彼女はすごく悩んで悲しかったと言っていましたが、親の彼女は職場では、人に仕事を押し付けてる。これって因果かなって思っちゃいました。
親の因果が子にかもですね
人の親になったら特に子供に因果が回んないようにいじめやそういうのはしちゃあかんですな
出来れば親切にしてその徳が子供に回るように~で