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八咫烏は朝日を連れてくる存在だった

さて世の中行というものがある 仏教でも神道でも宗教にもあるし

武術やらにもある

哲学的に言えば人生だって行かもしれない

私思うに大事なのって行をすることよりもその動機と目的

何故に?なんだと思う

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よく家系の業の消化のために~とか人様のために~という立派な方っていますが

でも本当は自分のためにじゃないとだめじゃないかと思ったりなのです

自分がやりたいから

結局はそこなんだと 他人からやりなさい、先祖のために云々って

確かにかっこいいけどね~

自発的じゃないと行に失礼なんじゃないかとさえ思う

確かに武術でもなんでも行ってしんどいじゃないっすか

お金も時間もすご~くかかるし精神的にも肉体的にもしんどい

これやってどうなるの❓さえ思う

ですが結局皆さん続く方って終わった後の充実感やなにか

自分にとってええな~と思うからなんだと思う

それがなければ我慢比べといいますか

やはり自分のためにでしょ 武術なんかも結局は自分の欲しい

武術の奥の奥を手に入れたいという欲求かもですし

厳しい行をすればするほど神仏が喜ぶ的な言葉あるじゃないっすか

世間では厳しい行をすることが~とお思いかもですが

私なんかの感覚ですと

行の厳しさでというよりも そこまで厳しい行をすること=神仏とそこまで真剣に向き合ってる

そこを喜ばれるんじゃないかな~

宗教なんかの行って

肉体鍛錬、精神鍛錬というものでなく 神仏というものありきじゃないっすか

そこまで本気で神仏に向き合うのねという結局は本気度をじゃないっすかね~

格闘技なんかで言うと 神仏が強さというものとして

強さを求めるためにそこまで過酷に追い込みますという感じ

追い込むことがうれしいじゃないじゃん

本来の目的って

そこまで強くなりたいのね~ そんな姿勢にトレーナーも喜ぶ

そんな感覚かも

私も行は好きじゃないといいながら 実は結構好きですもん

その最中は逃げたいな~と思いますが

結局山なんかも行きたくなるんですね~ なぜだか

そういうもんじゃないっすか?

さて熊野ですが ふと感じたのが

都って聖(貴族や天皇)と俗(下層階級の庶民)って

交わんない存在じゃないっすか

それどころか聖は俗を見向きもしないというか

これがですね

吉野~熊野のラインって聖と俗が交わるんすよね~

凄く不思議な感覚

吉野の南朝にしても、足利尊氏に追われた護良親王(皇太子さん)

なんかにしても

護良さんなんかは十津川村が一生懸命匿ったりじゃないっすか

凄く不思議な生と俗の交わる感覚の土地だな~って

あとはですね やはり黄泉の国なんですよね

感覚として

八咫烏が~って先導、道開きとしての意味と

もひとつ

多分夜明けというか そんな意味合いもあったんじゃないかな~

鳥って朝早いじゃん

カラスが鳴いて夜が明ける、そんな感覚と言いますか

八咫烏が朝を連れてくる

そんな感覚もかも

わたしの勝手に浮かぶビジョンなのですが

まあ神武さんだかだれだか

yjimage

ま、こんな感じの方の方の上に3本足のカラスが乗ってって

山中をこっちだぴょーんと道案内して

夜になって真っ暗の中歩かないといけない状況の時は

ガ~ガ~とないて 朝日を連れてきちゃう

そんな感覚ですな(多分本当は時計がない時代なので時間感覚がなくてですね、太陽が昇る直前にカラスがガーガー鳴くから

おお~からすって朝日を連れてくるんだ~)

そんな感覚ですな ちなみに夜=死の国【黄泉)

日中=生の国という感覚だったんじゃないかな~

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