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太閤秀吉が欲しがったもの

さて京都の阿弥陀が峰にある豊臣秀吉のお墓に行ったときに

とある声が聞こえた(ような)気がしたのです

そしてリーディングは始まったのであった~

その声の主は名古屋の中村の百姓の子として生まれ

のちに関白まで上り詰めた稀代の英雄、おらが村の

太閤秀吉さん

わしが不幸だったのは 人生の老年期まで天下を治めるというビジョンを持っていなかったことなんだわ~

と微妙な名古屋弁で語りかけてくるのでした

さて私が感じることを

この方独立大名ではなく織田信長という多分日本史上で1,2を争う絶対的な権力を持った男の部下だったじゃないですか

人生で信長公を殺害して自分がトップになる

そんなこと考えたこと無かったんです あの本能寺の変が

起こるまでは

時に秀吉46歳 人生50年と謳われた時代の46歳

今でいうと多分定年間際の60歳とか65歳くらいの感覚じゃないかと

その年まで日本という国を治めるプランをもってない人物が

いきなりこの国を治めることとなったら そりゃあね~

混乱もしますよ

例えば家康さんなんかは一応独立大名でしたから 統治は自分ででしたし

信長、秀吉という見本を見た後でしかも秀吉存命中から

自分が天下を取ったらこういう国づくりをして~

そんな感じで考えてたと思うのです

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さてその秀吉さん 天下人になってからは人格が変わったように独裁者になったじゃないですか 冷酷な

人格が変わった?というくらいに

あれですね 精神病理なんかで語ると精神疾患が~という方もいますが

私の感覚ですと 結局信長公の真似という選択肢しかなかった

何だと思うのです

信長公って基本家臣から鬼神のように怖れられてたじゃないですか

ある意味恐怖支配の専制君主スタイル

秀吉さんも基本スタイルはこれでしか天下は収まらんな~

しかも自分はもともとは諸大名と同格、もしくは格下だったわけだから

しかも卑しい身分だで誰もわしをそんけいしやしない

という感じですから だったら恐怖支配しかないわなと

さてその秀吉さんが一番嘆いていたことが

わが豊臣商会には良い人材がいない!!なのです

いやいや、優秀な人材って結構いるのです

三成君なんかは多分大久保さんと並ぶ日本史上1,2を争う

超優秀官僚ですし

清正、福島コンビなんかは当時の日本でも指折りの軍人さん

弟の大和宰相秀長なんかは内政も軍事もそこそこでき人望もある

優秀なナンバー2という感じで

ただその秀長の死が惜しかった!!と嘆いてます

わが社には上杉商店の直江兼続のような男がいない!!

そこが致命傷になったというのです

皆さん大好きな直江ですよ!!

ちなみに秀吉って直江さんを凄く買ってって

30万石で自分の直臣にならんかと何度も誘ってたりね

ちなみに30万石って当時でいえば小結くらいになるんですよ!!

独立大名ではなく単なる上杉家の家老なのに

それくらい欲しかったのです

続く

コメント

  1. チャム41 より:

    直江さんとか小十郎を外資的にヘッドハンティング、一本釣り試みてますよね、太閤さん。それも信長公の戦略にあったんですかね〜。

  2. jimi より:

    太閤さん、それ以前は徳川の官房長官石川数正を一本釣りしてますからね

    それによって徳川家の軍事が筒抜けになり軍制改革しないといけない羽目に
    (そのタイミングで赤備え投入)

    毛利家からは小早川隆景なんかを重用したり やはり五大老や伊達家という
    豊臣の脅威になる可能性のある大藩から、柱である家老なんかを釣ることで
    弱体化を狙ってたのでしょう

    直江さんは見た目の良さも当然お気に入りのポイントだったでしょうな